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朝日新聞デジタル:(いま伝えたい)暮らし奪った原発事故 痛み報じ続ける - 社会


■「千人の声」その後 取材後記:8

【特集】いま伝えたい 「千人の声」その後


 【竹野内崇宏】2月初旬、半年ぶりに訪れた福島県で、冬でも日焼けが抜けず、深いしわをたたえて笑う「お父さん」たちに再会できた。農作業、山仕事、水産業。毎日のように朝早くから手を動かしてきた人たちが持つ、独特のリズムやにおいが、私は大好きだ。



 だからこそ、そんな人たちから田畑や海、仕事を奪った原発事故が許せない気持ちが、強まった。



     ◇



 東京電力福島第一原発から約20キロ。川内村の農業、大森吉亥(よしい)さん(65)宅を訪ねると、大森さんはいつものように、手を動かしていた。



 「農家は薪(まき)が減ってくっと、冬が越せねえって不安になんだよ」。薪は小屋に山盛りになっていたが、まだ足りないと笑いながら、丸のこを使っていた。



 結婚はせず、父の作造さん(89)と2人で30年以上コメを作り続けてきた。初めて会った昨年2月は、避難先の郡山市の仮設住宅で「コメを作りてえ」と力なく話していた。昨年9月、私が夏休みに村を訪れたときには、「来年からコメを作れるように、田んぼにゼオライトふってんだ」と、セシウムを吸着する白い粉を見せてくれた。



 希望通り、村では今年、3年ぶりに米作りができることになった。だが大森さんは今年、もともとの1・2ヘクタールの半分しか作らないという。



 「情けねえけど、2年やってねえと、肥料はどのくらいふっべとか、忘れちまってる気がすんだよな。体で覚えてたもんだから」。1年前よりずっと明るくなった表情にも、弱気な陰がのぞいた。



     ◇



 川内村はかつて、木炭や薪、材木で潤った。



 村で40ヘクタール近い山林を造成して造園業を営んでいた鷲尾善正さん(76)は「みんな農業もやってな、ほんときついばっかりで金にならなかった」と振り返る。



 鷲尾さん自身は、農業に加えて、松などの庭木を東京、大阪に売る仕事を30代で始め、会社を大きくした。4年前に長男に経営を譲ったが、その後も山に入り、シイタケや炭を作る生活を続けていたとき、原発事故が山を襲った。



 放射性物質が付着した植木数千本の出荷は諦めている。被害は数千万円分にのぼるが、「東電の賠償項目には『植木はねえ』って断られて。1本1本見ないと、値もつかねえから賠償自体難しいって。林業と農業の村なのに、原発はあぶねえぞってずっと言ってきたんだけどな」。



 震災から2年。孫3人がいる家族を守るため、郡山市の仮設住宅での暮らしが続く。山仕事で鍛えた幅広の肩を落としたままだ。



 「なんで、おれらみたいな何でもねえ人が……。だんだんみんな貧しくなって、縮こまって、お酒も飲めなくなってきてんだ」



     ◇



 いわき市では、祖父の代から水産仲買業を営む熊木敏男さん(64)に再会できた。太平洋に面した久之浜港近く、サケなどの加工場も兼ねていた自宅を「山のような津波」と火事で失った。海の見えない内陸部の仮設住宅で1年前、「福島の漁業を持ち直すきっかけにしねえと」と私に意気込みを語っていた。


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